100年の想い
1923年の関東大震災からはじまる三菱地所グループ防災の歴史

関東大震災直後、三菱地所では、東京駅前に三菱倶楽部の畳を持ち出して臨時救護所を設置し、本社と丸ビルの医師が応急手当にあたった他、丸ビルの貯水を提供しました。さらに都内各所に三菱診療所を開設し、被災者救護に尽力しました。

100年以上にわたる、三菱地所グループの防災文化

「安心・安全」を企業文化と位置づけ、関東大震災の経験をもとに、1926年から100年にわたり三菱地所グループや多くのテナント企業、東京消防庁も参加する「総合防災訓練」を丸の内で実施。これは発災後の初動から要救助者の対応、帰宅困難者や来街者への対応を含む大規模なもので、レスキュー隊による救出訓練、放水訓練まで、緊張感のある実践的な防災訓練が行われています。

「100年」の防災文化が築かれた日

防災が私たちの「企業文化」となるその起源は、1923年の関東大震災にあります。
三菱地所グループがどのように震災を迎え、どのように対応し、そしてそれが実践的な防災訓練として、
どのように現在に至るまでになったかについては、さまざまな記録が残され、グループ内で継承されています。
その一部を、ここにご紹介させていただきます。

1923年9月1日 三菱合資会社庶務部日誌の記録より
9月1日(土)晴
1.午前中平常通り執務す
1.午前11時58分初震襲来、2~3分を隔てて前後3回の激震あり、室内器具硝子破損す。
その後、9月1日中に210回、翌2日には計337回に及ぶ余震があったとされる、この未曾有の震災を受けて、三菱合資会社本社および地所部では、発生直後から応急的救護を開始し、5日には常務理事青木菊雄を総取締として、活動を開始しました。
青木は当時箱根滞在中で連絡がとれなくなった岩崎小彌太社長名義で、政府に対し災害救護のため500万円を寄付。社長決裁を経ずに独断で実行した青木に対し、岩崎社長はよくやってくれたとねぎらったと言います(伊藤正徳『青木菊雄伝』昭和25年)。
「全員、自分の家に帰ってはならない。丸の内の人々の保護のために、皆で残れ」
「その当時の赤星部長(陸治)が、『全員、自分の家に帰ってはならない。丸の内の人々の保護のために、皆で残れ。女の人だけは帰ってよろしい』と指示されました。(中略)とにかく私は1週間位自分の家に帰らないで、避難民の救済をいたしました。(中略)この震災の時に、皆と一緒にこういうように救済した。これで、私自身としては丸の内というものに非常に愛着を感じました。忘れることができない。こういう仕事を一生懸命に皆と一緒にやってみようという気持ちが起こりました」。 (昭和48年9月3日、関東大震災記念行事の際の渡辺会長講話より)
臨時救護所の設置から、現在に至る防災訓練まで
そうした中、三菱地所では、地震発生直後より館内負傷者と内外ビル崩壊による死傷者を収容するために、丸ビルと東京駅の間の広場に三菱倶楽部道場の畳50~60畳分を持ち出し救護所をつくり、本社医師佐藤要人と丸ビル各医師により応急処置を開始しました。3日には天気が崩れ、野外に野営している避難民を丸ビル1階に収容。8日には三菱臨時震災救護部が設置され、東京市内5か所と横浜1か所に一般向け臨時診療所を開設。地所部では突貫工事で診療所建築工事を実施し、17日には東京駅空地に丸の内診療所を開設、以後、九段、日比谷、上野、芝、横浜山手の各診療所を開設しました。閉鎖までに救療したのは、4万4,179人、これは東京市内の官民救療施設の中で、第6位にあたります。
こうした活動は一般の人々の注目も集め、雑誌には『丸ビルを死守した三菱の人々』と題する記事が紹介されたほど。『当時三菱地所赤星陸治氏始めその部下の社員が、家をも身をも犠牲に供してその本域たる丸の内ビルディングを死守し、さらに寝食を忘れて挺身救護の為に健闘した』(「実業之日本」第26巻21号、大正21年12月1日号)と記されています。また翌13年の9月1日、赤星部長に警視総監から感謝状が贈られています。
今日でも9月1日に行われている総合防災訓練には、震災3周年目の大正15年9月1日に最初の記録がみられます。この実践的な活動は、往時に「実践」された救護活動の想いを、今に、そして未来へと受け継いでゆくものなのです。

※三菱地所社史「丸の内百年の歩み」より

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