ザ・パークハウスストーリー

ザ・パークハウス誕生までの物語をご紹介。テーマは、「一生ものに、住む。」そこに込めた住まいづくりの想いをお届けします。

「ザ・パークハウス 品川荏原町」時を超えて、想いをかたちに。〜荏原町駅前地区防災街区整備プロジェクト〜

プロジェクトリポート「ザ・パークハウス 品川荏原町」時を超えて、想いをかたちに。
〜荏原町駅前地区防災街区整備プロジェクト〜

商店街のなかの小さな仲見世。ノスタルジックな雰囲気が魅力である一方、何十年も前から建替えの必要性が論じられては、なかなか前に進まずにいた。転機は東日本大震災。商店主たちは覚悟を決める。災害に強い仲見世に、いざというときは、地域を"守る"拠点となるように。
荏原町商店街に誕生した新たなランドマークは、人々の想いをのせ、空にそびえる。

text by Norihiko Morita
photos by Naoki Seo
illustration by Kenji Oguro

旗の台なか公園から望む『ザ・パークハウス 品川荏原町』

旗の台なか公園から望む『ザ・パークハウス 品川荏原町』

東京・品川区、下町風情を残す荏原町商店街は、東急大井町線に沿うように東西へ、さらに南へとT字型に広がっている。そして街の起点となる荏原町駅の目の前には、街のシンボルのようにタワーマンションがそびえている。『ザ・パークハウス 品川荏原町』。竣工して約1年とまだ新しい。そのマンションを、三菱地所レジデンスの貴家雄一は見上げていた。完成して1年、完成するまでに5年、完成を夢見てからは30年以上経つだろうか。その長い年月の、夢を現実にする一時期を、懐かしさとともに思い返していた。

旗の台駅方面を見下ろす『ザ・パークハウス 品川荏原町』屋上からの風景。

旗の台駅方面を見下ろす『ザ・パークハウス 品川荏原町』屋上からの風景。

エントランスから見上げる『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

エントランスから見上げる『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

小さな仲見世が、再生を目指す。

1974(昭和49)年9月の荏原町商店街風景。

1974(昭和49)年9月の荏原町商店街風景。

この場所は、もとは複数の商店が集まる仲見世だった。戦後すぐに商いを始めた商店主たちの共同体として荏原町商店街の一角を担い、昭和の経済復興を足元から支えてきた。しかし、世がバブル経済を謳歌し始める1980年代後半には老朽化が顕著となる。それまでにも一部の商店主が共同建替えを行ったが、長屋構造のため抜本的な解決にはいたらない。そんな頃、品川区から再開発を打診される。商店主たちは品川区が呼びかけた勉強会(共同建替え研究会)に参加し、仲見世再生への機運が高まったと言う。しかし、足並みをそろえるのは難しかった。「亀七寿司」の三代目、中村卓氏は大学を卒業し、修業しながら建替え話を聞いていた頃を振り返る。

「誰もが仲見世を建替える必要性を感じていましたが、すべての店主の意見をまとめるのは難しいことなんだと思っていました。親父たちは大変なことに挑んでいるのだな、と。でもあきらめてはいけない、という気概は、私自身を含め皆が持ち続けていました」

その後、長い時間をかけて意見をまとめていくなか、2006年にコンサルタントの提案を受け、建替えに踏み切る機会が訪れる。しかし、建築計画に不備があり頓挫。2008年にも別のコンサルタントの提案を検討したが、事業の採算性など折り合いがつかず合意にはいたらなかった。期待だけが膨らんだ20年あまり。しかし、その歳月は機が熟すための期間でもあった。ラストチャンスだったと、後にそう思うにふさわしい、幾多の出会いが、ここから始まっていくのだった。

荏原町商店街のアーチ完成記念イベント。火災予防パレードも行われた。

荏原町商店街のアーチ完成記念イベント。火災予防パレードも行われた。

再開発前の仲見世の商店。仲見世の敷地内(約1,000㎡)に24棟の建家があった。

再開発前の仲見世の商店。仲見世の敷地内(約1,000㎡)に24棟の建家があった。

昭和30年代に建替えた仲見世の商店。

昭和30年代に建替えた仲見世の商店。

再開発前の仲見世の商店。仲見世の敷地内(約1,000㎡)に24棟の建家があった。

再開発前の仲見世の商店。仲見世の敷地内(約1,000㎡)に24棟の建家があった。

イベントのたびにマーチングバンドが繰り出し、駅前や商店はにぎわった。

イベントのたびにマーチングバンドが繰り出し、駅前や商店はにぎわった。

再開発に向けて、役者がそろう。

荏原町駅前地区防災街区整備事業組合の会議風景。ときには会場を移し、商店主の店や自宅でじっくりと話し合うこともあった。

荏原町駅前地区防災街区整備事業組合の会議風景。ときには会場を移し、商店主の店や自宅でじっくりと話し合うこともあった。

建替えを目指しながらも紆余曲折を経ていた頃、品川区の提案により、防災街区整備事業としての検討が始まっていた。そして発生した東日本大震災。仲見世でも被害を受けた店があり、建替えへの意識は否が応でも高まった。そこに新たな事業パートナーとして現れたのが首都圏不燃建築公社(以下、不燃公社)だった。すでに板橋区で防災街区整備事業の実績があったのが、建替えを実現する好材料に思えた。もちろん〝三度目の正直〞となるかどうかは未知数。不安の方が大きいのが本音だった。不燃公社の越渡英雄氏はその頃の緊張感を昨日のことのように思い出す。「皆さんが長年夢に見ていた事業です。しかも二度の挫折を経ている。〝二度あることは三度ある〞と思われても仕方ありませんでした。ただし、私たちには自信がありました。それを一つひとつご提案するのみです」越渡氏の熱意に、警戒感を抱いていた商店主たちが心を開くのに、さほど時間はかからなかった。そうなると自信は確信に変わる。「自己負担金」が不要なプランで勝負に出た。

もちろん不安がないわけではなかった。補助金が得られるとはいえ、タワーマンションで販売する住戸の収益が見込めなければ絵に描いた餅だからだ。そこに白羽の矢が立ったのが三菱地所レジデンス。安全性・品質・ブランド力が、この事業の要として組み込まれた。「防災街区整備事業に参画するのは初めてでしたが、私たちにも自信がありました。ちょうど事業組合に加入した2013年は、晴海に当社の免震タワーレジデンスが完成する年。その経験と実績を生かすまたとないチャンスでした」

街開発事業部に籍を置く貴家にとっても、この事業は挑戦するに足るものだったのだ。これまで事業計画が立ち消えになったほど難しい再開発。難航するかもしれないタワーマンションを荏原町に誕生させる。その使命を、事業に関わるすべての人が感じていた。貴家だけでなく商店主たちや不燃公社の越渡氏、設計やコンサルタントなど各社の担当者たち。−チーム荏原町−後に彼らは自分たちをそう呼ぶことになる。その名を冠するに値するほど、この事業は”人ありき”だった。

先進の免震タワーレジデンス

『ザ・パークハウス 品川荏原町』は、2階と4階の間(3階部分)に免震装置を設置した中間層免震構造を採用。地盤から直接地震エネルギーが伝わる一般的な耐震構造とは異なり、免震装置が地震の揺れによる建物(住戸部分)への影響を大幅に軽減する構造となっている。外壁にはダブル配筋、柱には溶接閉鎖型フープ筋を施し、高い強度と耐久性を実現している。

先進の免震タワーレジデンス

3階の免震層に設置されたオイルダンパー。地震エネルギーを吸収する。

3階の免震層に設置されたオイルダンパー。地震エネルギーを吸収する。

左/免震層のガス、水道、下水、電気などの配管類は、揺れることを考慮して、可動する仕組みになっている。>右/地震軌跡記録装置(ケガキ装置)。地震時における建物の水平方向の挙動を記録する。

左/免震層のガス、水道、下水、電気などの配管類は、揺れることを考慮して、可動する仕組みになっている。
右/地震軌跡記録装置(ケガキ装置)。地震時における建物の水平方向の挙動を記録する。

仲見世を解体、除却を進めている様子。

仲見世を解体、除却を進めている様子。

仲見世のあったエリアが更地に。

仲見世のあったエリアが更地に。

『 ザ・パークハウス 品川荏原町』の建設風景。

『 ザ・パークハウス 品川荏原町』の建設風景。

完成した『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

完成した『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

防災拠点として地域に貢献

品川区との協定により、『ザ・パークハウス 品川荏原町』には地下に防火水槽が備えられており、商店街で火災が起きたときなどに活用される。また、管理組合の防災備蓄倉庫だけでなく、品川区の防災備蓄倉庫があり、災害時には地域住民が利用できる。ラウンジには7名、共用通路には45名の帰宅困難者を収容可能。開口部には防炎シートを張ることができる。

防災拠点として地域に貢献

災害時の帰宅困難者一時受け入れスペースとなるラウンジ。

災害時の帰宅困難者一時受け入れスペースとなるラウンジ。

2階クリニックモールの共用通路。普段は新仲見世の憩いの場となっている。

2階クリニックモールの共用通路。普段は新仲見世の憩いの場となっている。

共用廊下も開口部から明るい日差しが。

共用廊下も開口部から明るい日差しが。

シックでモダンな印象のエントランスホール。

シックでモダンな印象のエントランスホール。

 再生に込められた想いのかたち。

「亀七寿司」の中村卓さんは、自宅も『ザ・パークハウス 品川荏原町』。「アクアラインの『風の塔』が見えるんだから!」とタワーマンションの暮らしに大満足。

「亀七寿司」の中村卓さんは、自宅も『ザ・パークハウス 品川荏原町』。「アクアラインの『風の塔』が見えるんだから!」とタワーマンションの暮らしに大満足。

「みんなが喜んでくれてホントうれしいよ!」と、新仲見世の八百屋「中眞商店」の五代目、長谷川徹さん。

「みんなが喜んでくれてホントうれしいよ!」と、新仲見世の八百屋「中眞商店」の五代目、長谷川徹さん。

チーム荏原町の話し合いは、何度も何度も行われた。議論が白熱し、ときには夜明けを迎えることもあったという。大きなポイントは、防災性の向上と新仲見世としての再生だ。防災の観点では、防災備蓄倉庫を2階に用意し、地下に防火水槽の設置を計画。また、2階のラウンジと共用通路は災害時の帰宅困難者一時受け入れスペースとしても活用。かつては木造密集地域として災害時の火災が懸念されていた仲見世が、地域の防災拠点としての機能を有するのだ。建物自体は中間層免震構造を採用し、地震の揺れにによる住戸への影響を大幅に軽減する。新仲見世計画では沿道に歩道を確保し、商店街を行き交う歩行者が歩きやすいように考慮した。また、仲見世時代の商店街と駅をつなぐ通路「仲見世通り」を再現。貫通道路として、歩道から駅改札へ向かう〝抜け道〞の役割をこれまで同様に担っている。チーム荏原町の一員、「中眞商店」の長谷川徹氏は、この貫通道路に、かつての仲見世の良心を感じている。
「駅への行き帰りのちょっとした近道なんだけど、そんなささやかなことが仲見世のにぎわいの一部だったんですよ。行き交う人たちは、私たちにとってのお客さん。お客さんが便利なんだって言えば残してあげたいじゃないですか。昔の通りよりずいぶん幅広で立派になっちゃったけどね(笑)」

クリニックモールとしてテナントが入居している2階には、新仲見世の新たな試みもある。今回の再開発を機に廃業した地権者は、共同でこのスペースを所有し、テナントに貸し出しているのだ。賃料収入をフロアの所有割合に応じて配分することで空室リスクを軽減し、安定収入が図れる。考えに考えを重ね、商店主たちの利害を調整した結果が「共同床経営」というかたちに現れているのだ。

新仲見世として再生した免震レジデンスは、この事業に携わる人々の知恵と努力、情熱があってこそ、5年という短期間で誕生した。「みんなのおかげだよ!」と言う中村氏の笑顔にその想いが表れているようだ。街の新しいランドマークとして、にぎわいの場所として、『ザ・パークハウス 品川荏原町』は、これからも荏原町商店街の一翼を担っていく。

荏原町商店街から望む『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

荏原町商店街から望む『ザ・パークハウス 品川荏原町』。

2016(平成28)年4月に行われた新仲見世グランドオープンの記念パレード。

2016(平成28)年4月に行われた新仲見世グランドオープンの記念パレード。

沿道部に確保された歩道。外構は緑化計画も実行され、敷地の5%以上を緑化している。

沿道部に確保された歩道。外構は緑化計画も実行され、敷地の5%以上を緑化している。

貫通道路。商店街から真っ直ぐ荏原町駅の改札に抜けることができる。通りに面して「亀七寿司」のテイクアウトコーナーも新設。

貫通道路。商店街から真っ直ぐ荏原町駅の改札に抜けることができる。通りに面して「亀七寿司」のテイクアウトコーナーも新設。

 ザ・パークハウス 品川荏原町(販売済)

地上18階建、総戸数55戸。東急大井町線荏原町駅の目の前という好立地のタワーレジデンス。ワンフロア4戸のみ、プライバシー性の高い内廊下設計のうえ、全住戸角部屋を実現した。免震機能も備え、安心と快適な暮らしを実現している。

●所在地/東京都品川区中延5丁目944番39(地番) ●構造・規模/鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造・地上18階、地下1階建 ●総戸数/55戸(事業協力者住戸8戸含む)、ほかに施設(店舗)14区画 ●売主/(一財)首都圏不燃建築公社、三菱地所レジデンス(株) ●施工会社/大成建設(株) ●竣工/2016年2月

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