清澄庭園

清澄庭園

九重塔には伊勢御影とある

ぼくが通った都立高校は現在の東京都中央区日本橋箱崎町にあった。いま箱崎公園のある場所が学校の跡で都心の学校だから小規模だがとくに校庭は無いに等しく、校庭の無い高校という妙な理由で有名な学校だった。

ならば体育の授業はというと、どんなに天気がよくても講堂を兼ねた体育館でするしかなく、運動部もバスケット部とバレー部だけだったが、そのバスケット部は強くてぼくらの誇りだった。

そんなわけで体育の時間によく行なわれたのが校外マラソンで、永代橋と清洲橋を巡る一周2キロのコースを何周かするのだ。下町だから道は平坦なはずだが隅田川の橋は水面高が高く、従って橋の中央までの上りは相当にきつく、今日はマラソンといわれると一同がっくりした。

そこで上級生から秘かに伝わるマラソン対策は、橋を渡らずに手前のどこかで時間をつぶし、頃合いをみてチェックポイントを通過して一周したことにするというもの。これなら若干の演技力さえあればだれでもできた。

しかし天網恢々疎にして漏らさず。あるとき集団で倉庫の裏でサボっているのを学校の用務員さんに見られてこの秘策もダメとなり、さらに江東区側の中間地点に先生が自転車で出張して見張るという厳しい事態となった。

その場所がこの清澄庭園の隣の清澄公園で、当時は公園の脇まで仙台堀につながる堀割があり、庭園の池よりもっと大きい公園の池とつながっていたと記憶する。その堀を背にした体育の先生(学徒出陣で特攻隊に入ったが生還した人)が、意外に優しく一人ひとりに声をかけてくれたのを思い出すことができる。(小林)

清澄庭園図

明治を代表する回遊式林泉庭園である清澄庭園は、1878年、三菱初代社長・岩崎彌太郎が、江戸大名・久世氏の下屋敷跡を含めた広大な土地を購入、別邸として整備に着手したことが始まりだ。かねてから庭園への興味関心を抱いていた彌太郎は、自ら造園を監督、1880年に深川親睦園としての利用を始め、国への来賓の招待や社員の慰安の場とした。

なかでも特徴的なのは、庭園の随所に配された全国の名石。幼少期から石好きであった彌太郎が、日本各地の美しい自然石を汽船で運び集め、趣深い石庭を形づくった。

病に倒れた彌太郎の遺志を継ぎ、二代目・彌之助はジョサイア・コンドル設計の洋館や、河田小三郎設計の和館を建て、1891年に庭園を完成させる。さらに、彌之助の没後には、三代目・久彌が国賓の英国・キッチナー元帥を迎えるために、数寄屋造りの涼亭を建設した。1923年の関東大震災で建造物の大半が消失するも、庭園に逃げ込んだ多くの人々の命が助かり、防災面での重要性を説いた国の復興計画に基づいて、久彌は庭園を東京市に寄付する決断をした。

現在では年間24万人が訪れ、その一割が海外からの旅行客だ。素朴ながら個性ある数々の庭石を眺めつつ園内を周れば、庭園の南岸、富士山に見立てた園内最大の築山にたどり着く。都会の喧騒を離れ、時を越えて受け継がれた日本独自の庭園文化に思いを馳せることができる。
(協力=清澄庭園、三菱史料館)

清澄庭園

●住所/東京都江東区清澄3-3-9
●電話/03-3641-5892
●アクセス/都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河」駅より徒歩3分。
※駐車場はありません。
ご来園の際は、入園料や休園日など事前にご確認ください。

こばやし・やすひこ/イラストレーションを中心に小説の挿絵、本の装丁、絵と文によるレポートも手掛け、国内外にもよく出かけることから旅の名人としても知られる。著書には『ほんもの探し旅』(ヤマケイ文庫)など多数。