強羅環翠楼

華清園(庭園)に面した環翠楼の建物

最近どこへ行っても気付くのは、ヨーロッパからの旅行者が多くなったことだ。外国語がわからないぼくでも、聞こえてくる会話が英語でないらしいぐらいはわかる。見た目にコーカソイドと思われる人でアメリカ英語でなければヨーロッパ人と単純に判断してしまうのだが、このことを旅行事情に詳しい人に話したら実際にヨーロッパからの旅行者が増加の傾向にあるとのこと。

箱根に行った時も同じで、ヨーロッパからの旅行者が多いと感じた。それで考えるのは、遠いヨーロッパから旅して来た日本で箱根を訪ねる理由は何かということだ。けれども外国語が話せないので、その理由について尋ねることができなかった。

江戸から明治初年にかけて意外に多くの外国人が箱根に来ているのは知っている。以前その辺の事情を調べたことがあるが、古いところでは箱根町の杉並木に「讃える碑」があるケンペル(ドイツ人)で元禄3年(1690)に来日したことが死後出版された「日本誌」にあり、その中に箱根の記述もある。ツンベルグ(スウェーデン人)は安永4年(1775)に来日した時に箱根を越え、後に著した「日本紀行」に当時のことを書いている。文政6年(1823)にオランダ商館付き医師としてやって来たシーボルト(ドイツ人)も箱根越えのときに植物採集をしたりして、著書「日本」に箱根のことを記した。この3人が早い時期に箱根を訪れた外国人として紹介されることが多いが、その後も箱根に旅する外国人は多く、いままたたくさんの外国人を迎えているわけで、箱根の価値を改めて見直さなければならないと思った。(小林)

客室からの華清園の眺め

本年、創業70周年を迎える強羅環翠楼。岩崎彌太郎の三男・岩崎康彌の別邸として、1921年に建築されたのが始まりだ。大正時代の面影が残る数寄屋造りと書院造りを取り入れた木造二階建ての本館には、康彌の好んだ「松の間」と「晴旭の間」が当時の姿のまま残され、およそ百年の歴史に思いを馳せることができる。

1882年、東京で生まれた康彌は、イギリス留学後、東京毛布株式会社の取締役を務めた。1915年、強羅の土地を購入。当時、海辺から山間へと別荘地の人気が移り変わっている頃で、明治より開発が進んでいた箱根の中でも、康彌は強羅を選んだわけだが、その趣に惹きつけられたのは彼だけに留まらない。

1928年、康彌の別邸に泊まった閑院宮載仁親王はその景観を気に入り、南側半分の土地を譲り受け、自ら別荘を構えた。強羅環翠楼となった後の1955年には、箱根を訪れた昭和天皇皇后両陛下が、かつて東宮時代に康彌の別邸に泊まったことを思い出し、強羅環翠楼に宿泊されたというエピソードもある。クリント・イーストウッドら米国俳優陣が来日した際、和風旅館に泊まりたいという願いを叶える地としても選ばれた。

そして現在も、日々多くの外国人観光客が訪れる。時代を超え、国籍を超え、人々を魅了し続ける佇まいが、そこにはある。(協力=強羅環翠楼、三菱史料館)

強羅環翠楼

●住所/神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300
電話/0460-82-3141
アクセス/電車の場合:箱根登山電車「強羅」駅から徒歩3分、車の場合:東京方面からは小田原箱根道路・山崎ICより国道1号で約30分、名古屋方面からは新東名または東名高速道路・御殿場ICより国道138号で約30分。

こばやし・やすひこ/イラストレーションを中心に小説の挿絵、本の装丁、絵と文によるレポートも手掛け、国内外にもよく出かけることから旅の名人としても知られる。著書には『ほんもの探し旅』(ヤマケイ文庫)など多数。

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