HISTORY

歴史を見てきた森。

江戸、明治、大正、昭和のなかで歴史と深く関わってきた、三田。
蜂須賀正氏や松方正義などの貴族や政治家たちが行き交い、
ときにはここで時代がつくられることもあった。
洋館や大使館が並ぶこの地の大樹達は、その歴史をずっと見守ってきている。

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現地周辺航空写真 現地周辺航空写真
現地周辺航空写真

平安時代からその端緒が伝えられる
三田という地名。

「三田」という地名は、「御田郷」の名に由来すると言われています。
平安時代の承平5年(935年)頃の文献に「武蔵国荏原郡郷“御田”」と記されており、
皇室に年貢を奉るための地ということから「御田」になったと一説に伝えられています。
その後「御田」から「三田」に改めた経緯は定かではありませんが、
戦国時代には「三田」という漢字が使われていたとされ、
その後、昭和42年(1967年)に周辺の町丁と合併された際に現在の「三田」となりました。

また、「旧三田綱町」、「綱坂」、「綱の手引坂」。この界隈に綱という文字が使われているのは、
羅生門の鬼退治の逸話で知られる平安時代の武将、渡辺綱の名に由縁するものとされています。
地名や由来に歴史を感じるものが多いことも、この地の豊かさを物語っていると言えるでしょう。

※出典・参考文献:港区ホームページより

現地周辺の街並み/綱坂(約240m・徒歩3分)

現地周辺の街並み/ 綱の手引坂(約200m・徒歩3分)

大名屋敷が軒を連ねた
丘の邸宅という系譜。

三田の地は、風光明媚な場所として知られ、特に月見の景勝地として「月の岬」と称されるほどでした。
江戸時代以降、徳川家の菩提寺である増上寺が芝に移転されると、この周辺には、多くの奉行所や武家屋敷が築かれ、芝に近い高台の地であった三田の界隈には、松平家や有馬家、細川家など多くの大名屋敷が軒を連ねました。

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東都名所 芝神明増上寺全図 一立斎広重作
 出典:国立国会図書館
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イギリス人写真家フェリックス・ベアトが撮影した幕末の三田の風景(文久3年(1863年)頃撮)。

右側の長屋/伊予松山藩松平家中屋敷
(坂下は現在の慶應義塾大学、坂上はイタリア大使館)。
左側の建物/陸奥会津藩松平家下屋敷(現在の綱町三井倶楽部の一部)。
出典:長崎大学附属図書館
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江戸名所百景
月の岬(歌川広重作)
出典:国立国会図書館

「宰相街」と呼ばれるほど
政財界の人物が居を構えた三田。

江戸時代に大名屋敷が軒を連ねた三田界隈は、明治以降になると華族や政財界の邸宅が集まる街へ。
特に三田から芝の界隈は、伊藤博文や桂太郎、松方正義など多くの首相経験者が居を構えた事で「宰相街」と称されるほど政財界の名士達が住まう邸宅街となりました。

時代が代わり近現代に移ると、かつての邸宅は、区画の大きさから教育施設や各国の大使館などへと代わっていきました。歴代の邸宅の主たちも、美しい景観に魅了されていたことでしょう。そして現在でも三田の街には、その往時の面影が色濃く残っています。

※三田・芝界隈に居を構えた著名人の邸宅跡概念図(幕末〜昭和期)

松方 正義

[第4・6代内閣総理大臣]

日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、明治13年内務卿となる。以後、大蔵相を歴任し、後に首相となる。日本銀行創立など財政界にも功績を残す。

桂 太郎

[第11・13・15代内閣総理大臣]

陸軍次官、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣の陸相となり以後の内閣でも入閣。その後、首相となり西園寺公望と交代で首相を務め桂園時代を築いた。

伊藤 博文

[第1・5・7・10代内閣総理大臣]

吉田松陰に師事し、松下村塾に学ぶ。新政府の内務卿に就任後、要職を歴任。内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に。以後4度にわたって総理大臣に就く。

黑田 清隆

[第2代内閣総理大臣]

第1次伊藤内閣の農商務相を務めた後、首相となる。大日本帝国憲法の発布式典に関わり以後枢密院議長など歴任した。

渋沢 栄一

[実業家]

明治・大正期の指導的大実業家。第一国立銀行の総監役、頭取となった他、王子製紙、東京瓦斯など多くの近代的企業の創立と発展に尽力。大正9年に子爵となる。

蜂須賀 茂韶

[旧大名・華族・政治家]

徳島藩主蜂須賀家に生まれる。明治元年に藩主を継承、版籍奉還に伴い徳島藩知事に。その後、侯爵となり東京府知事、貴族院議長、文相、枢密顧問官などを歴任した。

出典:国立国会図書館

幻の迎賓館となった「紫雲閣」。

江戸時代から残る「札の辻」の地名。現在の三田三丁目にあたるこの場所には、”京浜工業地帯の生みの親”とも”コンクリート王”とも呼ばれた浅野財閥の創始者、浅野総一郎の邸宅がありました。まさに、豪華絢爛な建物で「紫雲閣」と称されたこの建物は、迎賓館としての役割を持ち、明治期の名所を紹介する「東京風景」という書物にも記されているほどでした。
この紫雲閣は、戦争による火災で焼失してしまい、幻の迎賓館と称されることになりました。

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出典:明治44年発行「東京風景」より 国立国会図書館