一帯は、さながら大野原の様相
明治政府からの相談に応じ、丸の内の土地が三菱に払い下げられた1890年(明治23年)当時、一帯は朽ち果てた古い大名屋敷のほかは、草が生い茂るばかりの荒れ地だった。
だが、当時の社長・岩崎彌之助と、社長のもとで最高職の管事を務め、三菱の近代化に大きく貢献する荘田平五郎のふたりには、まったく別の景色が見えていた。
別の景色が見えていた、岩崎彌之助の言葉
それは1891年(明治24年)に東京府へと提出された届書に、彌之助の言葉としてしたためられている。
「同地域は宮城に近接し東京市の中央にあって、最も中枢になるべき土地であるので、もし一般的な貸付地等に提供し、借地人の自由な処分を許すならば、その建築は必ず粗悪なものとなり、単に都市の景観を害するだけでなく、衛生上、防火上も公私の別なく、その損失は軽視できぬものであると考え、利用上、将来の利害得失を計算して、私は微力ではあるが、投資する以上、石造・煉瓦等堅固な建築物以外は、建築しないつもりである」
荒野に創出された、洋風建築のオフィス街

三菱一号館とその周辺
(東京都公文書館蔵「東京風景」明治44年/国立国会図書館WEBサイトより転載)
こうして1894年(明治27年)に竣工したイギリス・クイーンアン様式の「三菱一号館」を皮切りに、最新工法のオフィスビルを次々と着工。1911年(明治44年)までに13棟ものビルが建設された。

2009年(平成21年)に復元し、現在は「三菱一号館美術館」に