1923年(大正12年)2月、「丸の内ビルヂング」竣工。

1923年(大正12年)2月、「丸の内ビルヂング」竣工

ザ・パークハウスに受け継がれる品質へのこだわり。

救護の拠点となった、アメリカ式の白亜の高層ビル。

救護の拠点となった、アメリカ式の白亜の高層ビル。

1923年(大正12年)竣工、設計は桜井小太郎。簡素で広々としたアメリカ式事務所ビルは、商店街を設けることで通行自在とした。各フロアの区画も入室者の要求に応じ変更可能に。1999年(平成11年)に取り壊され、2002年(平成14年)に現在の丸の内ビルディングとなる。

時代が明治から大正へと変わると、丸の内の事務所スペースに対する需要は急速に高まり、ついには供給を上回るまでとなった。三菱社は、すでに三菱合資会社へと改組され、地所部が事業を担っていたが、同部は大規模な貸事務所ビルを一刻も早く建てる必要性に迫られていた。そこで規模と工期の観点から、アメリカ式高層ビルの導入を決断。同国の建築会社と合弁で、丸ビルこと「丸の内ビルヂング」の建設に着手するのだった。ちなみに「丸ビル」を中心に、行幸通り一帯にアメリカ式の白亜の高層ビルが立ち並び、「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」に対して「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれるようになるのは、それから数年後のことである。


延坪数1万8000坪、9階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造の「丸ビル」は、地下1階から地上2階に商店街を配置し、各フロアを急行エレベーターでつなぐという、当時の丸の内では最大規模にして最先端のビルだった。それにもかかわらず、約2年半の工期で竣工。当時は東京海上ビルで4年間、京橋の第一生命館で6年間の工期がかかっていたことからも、施工スピードがいかに速かったかが想像される。そしてそれは、全般的に機械力をできる限り利用し、人力に依存せざるを得ない部分の工事は、集約的に労働力を投入できるよう、労働者を親方の手を経て直接雇い入れるという、アメリカ式の工法、工事管理方式によって実現された。



救護の拠点となった、アメリカ式の白亜の高層ビル。

1923年(大正12年)8月、関東大震災に襲われる直前の東側(東京駅側)玄関前

しかも着目されるのは、建設中にマグニチュード6.8の大地震に遭遇。8割方でき上がっていた「丸ビル」にも被害が出た。そこで進行中の工事を中断し、各階主要部分に新たに補強用耐震鉄骨筋違163カ所を挿置するのだが、この補強工事がビル開業から半年後の1923年(大正12年)9月1日に発生する関東大震災において、しっかりと機能するのだった。


ビルは大損害を免れたばかりでなく、建物とその周辺が臨時救護所になった。そしてビル内各医師による応急手当をはじめ、9階水槽内の貯水が飲料水として、ビル内の各商店で扱う食料品が非常食として、それぞれ提供された。さらに地所部は、急ピッチで診療所建築工事を実施。東京駅前空地に丸の内診療所を開設し、以後、九段、日比谷、上野、芝、横浜山手に、各診療所を開くのだった。


地所部を中心とした一連の救援活動は、一般の人たちの目にも留まり、「丸ビルを死守した三菱の人々」と題する記事が雑誌に出たほどだが、このときの経験が、その後の三菱地所グループ、そしてザ・パークハウスへと受け継がれていくことになるのである。建物品質への強いこだわりはもちろんのこと、お客様が入居された後も、絶えず安心・安全を追求する三菱地所レジデンスの基本姿勢、各種取り組みは、関東大震災を境に「丸ビル」が体験した出来事が原点となっている。


三菱地所に入社以来、住宅事業を中心に数々の要職を担い、ザ・パークハウスの商品企画をリードしてきた平生進一は語るのだ。


「荒野のなかにたった1軒、ぽつんと屹立していた『第1号館』の姿は、さぞや滑稽だったことでしょう。アメリカの建築会社と合弁で進めた『丸ビル』の建設も、そこまでする必要があるのかと、見る人によっては奇異に映ったはずです。それでも先人たちは、100年先を見据えた大計を立て、理想像をきちんと描き、正しいと信じたことを実践することで、未来をかたちにしてきました。私たちのものづくりの原点は、まさにこうした伝統であり、そこに息づく情熱、スピリッツは、今も家づくり、街づくりへと生きています」

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