プロジェクトリポート「ザ・パークハウス 広尾羽澤」樹木保存と意匠の継承 広尾羽澤の歴史を紡ぐプロジェクト
2015年08月18日
東京都が東京府で東京23区が東京市だった頃、中村是公という男が1軒の邸宅を建てた。場所は、明治以降に大使館が点在しはじめた広尾。敷地は8,000m2にも及んだ。その庭で成長してきた木々と邸宅で磨かれた美意識を継承すべく、スペシャリストたちが自身の持てる能力を惜しみなく注ぎ込んだ。慣例にとらわれないプロジェクトがもたらしたのは、歴史を紡ぐ思いであった。
text by Yuji Iwasaki
photos by Yoko Sawano
江戸時代の初期の広尾は、「広尾原」「土筆が原」と呼ばれる広大なすすき野であった。天保年間に刊行された『江戸名所図絵』では、庶民が草摘みをしている図版が挿入されている。また、徳川将軍が鷹狩りに訪れるなど、おもに行楽地として親しまれる場所だったようだ。
江戸時代の後期になると、次第に大名屋敷や武家屋敷、寺社が建てられるようになった。現在、地域住民の憩いの場となっている有栖川宮記念公園も、当時は盛岡南部藩の下屋敷があった場所だ。明治に有栖川宮家の御用地となった後、昭和に入ってから記念公園として一般開放されるにいたっている。
その後、明治維新を経て、日本には海外から外交官が訪れるようになった。彼らが駐在するにあたって、選ばれた地域のひとつが広尾であった。当時の日本で新たに住居や職務の拠点を構える際、広尾にあった大名屋敷の跡地は、立地・広さともに格好の条件を整えていたからだ。
そして今や、広尾駅1km圏内には40カ国を超える大使館が点在するようになっている。「国際色豊かな街」「瀟洒でおしゃれな街」といった言葉で表現される広尾らしさは、近年になって現れたものではなく、すでに明治時代にその礎が築かれていたのである。
84本もの樹木を保存するために。
「ザ・パークハウス 広尾羽澤」が建設されることになった場所は、1915年に中村是公が邸宅を建てた地である。中村は、南満州鉄道の第二代総裁や東京市の第九代市長、貴族院議員などを務めた人物で、その敷地面積は約8,000m2にも及ぶものであった。中村が世を去った後、第二次世界大戦を挟んで、旧中村邸は料亭やレストランとして各界の名士が訪れるようになった。料亭時代には将棋の名人戦も行われ、伝説的に語られる棋士・大山康晴が姿を見せた。
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旧中村邸、料亭時代の面影を残す広縁。美しい木々が訪れる人々を楽しませた。(2011年撮影)
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1972年に行われた、第31期名人戦第1局。大山康晴名人と中原誠十段が対局した。料亭時代には、数々の名勝負が繰り広げられていった(日本将棋連盟)。
こうした歴史の変遷を見つめてきたのは、庭に植えられていた木々である。建設に際して、この木々たちが新たな物語を紡ぐことになった。
『三菱地所レジデンス』パートナー事業部の香山義樹が、プロジェクトのはじまりを語る。
「土地を有効活用するために、地権者様から弊社にご相談があったんです。そして、マンション建設の設計を進めていく段階で、近隣住民の方々などから『敷地内の木を切らないでほしい』『邸宅の一部を残してほしい』という声があがりました」
慣れ親しんだ景観が変わることに抵抗を感じる地域住民の思いは理解できる。しかし、その思いだけで土地や建物を維持管理することはできない。香山をはじめプロジェクトに携わる者たちの、両者の思いを両立させる日々が始まった。
まず行ったのは、敷地内の樹木と建造物の調査だ。樹木にはさまざまな保存方法があるが、建築計画や施工スケジュールとのバランスも考慮しなければならない。ひとつひとつの要素の可否を、正確に見極められる専門家が必要となった。
香山は造園業者に調査依頼の連絡をした。訪れたのは、造園や庭園の設計を担う『岩城』の登録ランドスケープ・アーキテクト、荒川淳良だ。荒川は樹木医とともに、樹木の大きさや状態を調べていった。
旧中村邸(左)の庭園に植えられていた樹木を、ひとつずつ調査。地域住民に愛されていたヤマザクラとイチョウの木は、接ぎ木によってDNAを引き継ぎ、竣工した「ザ・パークハウス 広尾羽澤」(右)に新たに植えられた。
「高さ10m以上の樹木がたくさんあって、大がかりな仕事になるなと思いました。また、ひと口に『木を残す』といっても、まとまって生えている樹林の場合、特定の樹木だけ掘り起こすわけにはいかないんです。風当たりが変わって、別の木が倒れやすくなるなどのリスクをともなうからです」
そして、綿密な調査結果をもとに80本以上の樹木を保存する計画が立てられた。うち、敷地内にそのまま残存することになったのは20本以上。60本以上は一時場外へ運び出すことになった。しかし、樹齢何十年の樹を動かすことは、容易ではない。樹種により移植に適した時期が異なるため、いつでも運び出せるよう、根の皮を剥いて小さな根を発根させる〝根回し〟を行う必要があった。
「万全を期すため、根回しは工事着手の1年以上前から始めたんです。保存が難しい一部の樹種は、接ぎ木によってDNAを残し、新たに植え直すこともしました。ただ、一番たいへんだったと思うのは、保存樹木近くで行われた擁壁工事です。擁壁工事自体は施工業者さんの仕事ですが、なるべく土を崩さず樹木を倒れないようにするというのは、技術的にも手間においても本当にたいへんなこと。事前に、何度も意見交換させていただきました」
実際に擁壁工事は困難を極め、現場に立ち合った荒川は、状況に応じて樹木を支柱で支えるなどの方法で対処していったという。
住まう人々の日常が歴史を引き継ぐ。
ほかにも、香山には課題が残されていた。意匠の継承だ。建物そのものは残せないが、使われていた部材やデザインの一部を採用することはできるかもしれない。香山は用途の検討を後回しにして、残せそうな部材を片っ端から倉庫へ運び込んだり、庭石や石灯籠を荒川に預けたりしていった。
「多くの部材を綿密に検討した結果、残せたのは、暖炉、違い棚、石畳、石灯籠、庭石など。ただ、ライトコートラウンジ周辺には、過去と現在をつなぐ意匠を数多く取り込むよう計画しました」
香山の言葉が意味するのは、オブジェとして残された暖炉や違い棚の存在だ。そして、もうひとつ、旧中村邸の雰囲気を継承するのが光庭である。設計を担った『三菱地所設計』建築設計四部(当時は建築設計住環境部)の神長洋平が明かす。
「ライトコートラウンジと光庭の設計では、ふたつのプランを提出させていただきました。通常、ひとつだけで進めることが多いのですが、実はとっておきの2案目を用意していたんです。そんな状況で、香山さんから『より多くの既存部材の利用と見せ場をつくることを検討したいので、複数案出せないか?』と問い合わせがあり、ここで出すしかないと」
結果、神長が押したふたつ目の案が採用されることになった。吹き抜けの構造を持つ外部空間としての光庭に、ライトコートラウンジが接しているものだ。自然光のみならず、雨や雪も庭に降ってくる。木々が見せる四季折々の美しさや時間の変化を、住まう人々が感じ取れる設計である。もちろん庭の造園は、このプロジェクトにおける木々の意義深さを知る荒川が担当している。
こうして試行錯誤を繰り返しながら進められたプロジェクトは、2014年についに竣工を迎えた。その期間は、足かけ7年にも及んだ。
竣工後、香山はマンションの周囲をひとりでゆっくりと歩いた。そこで、意見交換を交わした近隣住民のひとりに出会った。挨拶した香山に、その人は笑顔で言葉をかけた。
「いいものができ上がりましたね」
広尾と旧中村邸の歴史は、木々や意匠とともに新たに紡がれ始めている。
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旧中村邸に設置されていた暖炉。一部を切り出し、オブジェとして組み込む手法を採用した。
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置かれていた庭石には、荒川がひとつずつマーキング。いったん運び出してから、造園時に一部の庭石を利用することにした。
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傾斜地ならではの施工の難しさもあったという。
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ライトコートラウンジに面した光庭。神長、荒川、香山の思いが結実した場所でもある。
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中庭に残された石籠(左)。旧中村邸で使われていた石畳はエントランスアプローチで利用(右)。