プロジェクトリポート『ザ・パークハウス 上野』同潤会 上野下アパート 建替えプロジェクト:リポート本文

プロローグ

プロローグ

2013年5月上旬、『同潤会 上野下アパート』(以下、上野下アパート)は建物の解体を控え、すでに住戸の大半が空いていた。そんな時期に、かつて住んでいた住人たちが続々と集まってきた。84年にわたる上野下アパートの歴史において、最初で最後となる「お別れ会」に参加するためである。


「若かりし頃から最近まで住んでいたというご年配の方を、古くからの住民の方がお招きしていました。現在の住まいは違っていても、永くお世話になった方としておつき合いを大切にされてきたんでしょう」


お別れ会の様子を語るのは、『三菱地所レジデンス』街開発事業部の石原和彦。上野下アパートの建替えプロジェクトに関わってきた男だ。石原は言葉を続ける。


「まるで同窓会のような楽しさに満ちていました。これまでの経験からも、集合住宅におけるコミュニティの意義は十分わかっているつもりでしたが、上野下アパートの長い歴史が培ってきたコミュニティは、自分の想像を超えるものでした」

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だれもが納得できるプロセスを重視。

だれもが納得できるプロセスを重視。

上野下アパートの建替えが検討されたのは、実は今回が初めてではない。昭和末期から何度も繰り返されてきた。そのたびに頓挫してしまった最も大きな理由は、建物にともなう権利が複雑に絡み合ってしまっていたことにある。


第二次大戦後、上野下アパートは管理していた東京都から居住者へ払い下げられた。このとき、建物登記は居住者が、土地登記は居住者の自治組織が対象とされた。結果、単純に割り振れないふたつの権利が生じたのである。また、区分所有法制定以前の建物だったため、法的な裏づけを持つ管理組合もなかった。建替えに向けた話し合いの場を持ったとしても、スムーズに進まないのは当然であった。


「そもそも、住み続けている人もいれば個人の事情でアパートを離れ他人に賃貸している人もいて、なかなか決めごとを進められないわけです。そこでまず、2009年に正式に管理組合を設立して、翌年から勉強会を始めることにしました」


未就学児の頃から上野下アパートに住み、現在、建替組合理事長を務めている森瀬光毅氏が明かす。


勉強会では、『東京都防災・建築まちづくりセンター』から派遣してもらった講師から話を聞いた。建物の診断と建替え構想の検討業務は、マンション再生の業界団体に加盟している100社もの会社をあたった後、最終的に組合員の投票で選ばれた『UG都市建築』へ委託することにした。そして老朽化の実態調査、現行の耐震基準や防火・避難安全性との比較、区分所有者(各住戸の所有者)へのアンケート実施など、さまざまな視点から多くの検討材料を集めた。森瀬氏が、管理組合が貫いたスタンスを説明する。


「各業者の選び方にしても平等性にこだわり、人づての紹介などは避けました。そのうえで、建替えのメリットやデメリットをみんなで理解し、ひとつずつ決定していくことにしました。つまり、だれもが納得できるプロセスを重視したんです」

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基本コンセプトはレトロモダンと防災。

基本コンセプトはレトロモダンと防災。

検討の末、管理組合は2011年1月に建替え推進決議を可決。前年に建物の診断と建替え構想の検討業務を担ったUG都市建築に、あらためて建替えコンサルティング業務と基本設計を委託した。設計に携わった一級建築士、樋口修敬は言う。

「84年という歴史ある建物ですし、住んでいた方にも忘れがたい思いが詰まっています。関東大震災の後、防災を重視して建てられたその精神を受け継ぐことと、昔の面影を感じられることを両立させるため、いろいろと試行錯誤しました」

奥まったエントランスの趣や、集会所の窓枠に採用されていた格子状のモチーフを取り入れるなど、当時のレトロモダンな意匠を建物側面の窓や集会室のデザインに取り入れたのは、そんな樋口の考えが反映された部分だ。

事業協力者の選定に関わるコンペに向けて、管理組合は10社以上のデベロッパーに声をかけた。これも、「だれもが納得できるようにするため」だ。そして、最終的に三菱地所レジデンスが選ばれた。当時を石原が述懐する。

「弊社には、譲ることのできない安心と安全へのこだわりがあるんです。そのぶん工事費が他社より高くなる可能性もありますが、後日、区分所有者の方から『あそこまで制震構造の採用にこだわっていたのは三菱だけだった。そこが決め手のひとつだった』と聞かされました」

奇しくもコンペは、東日本大震災が起こってまもないタイミングであった。三菱地所レジデンスが手掛けた仙台地区の建物で、地震による建物への深刻な被害がほとんどなかった事実も後押しとなった。

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個々の思いをコミュニティ再生へつなげて。

個々の思いをコミュニティ再生へつなげて。

当時、石原とともにプロジェクトに参加していた大野禎史は、上野下アパートへ毎日のように通い始めた。建替えによって変わる生活や問題に関して個別に意見を聞くなど、細やかに対応するためだ。


「建替え後の建物に戻ることを断念し、引っ越しする選択もあるわけです。でも、私個人としては希望される方に全員戻ってほしいという思いがありました。だから、自分なりにできることを考え取り組んできました。たとえば、近隣の病院に通っていた方には、なるべく近い場所の仮住まい先を探したり、などです」


大野の言葉に続けて、石原が思いを吐露する。


「『三菱を信用して任せたんだ』という声も耳にして、その信頼に応え最後までやり遂げなくてはならない責任の重さを、強く実感しました」


住む人たちの思いを尊重する彼らの姿勢は、森瀬氏の心にもしっかりと届いている。


「もともと上野下アパートでは、子ども会や婦人会などの活動も盛んだったんです。そんな人情あふれる下町の精神を残したいという、私をはじめ古くから住んできた者の思いを理解してくれたことは素直にうれしい。時代とともに希薄になったコミュニティも、建替えを機に再生することを望んでいます」

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『同潤会アパート』とは?

1923年の関東大震災によって甚大な被害を被った翌年、当時の内務省が、住宅供給を目的とした財団法人同潤会を設立した。この同潤会の事業のひとつが、防災性に優れた鉄筋コンクリート造のアパートメント建設である。
大正末期から昭和初期にかけて建てられたのは、東京と横浜に全16カ所。電気・ガス・水道のほか、ダストシュートや水洗式トイレまで備え、機能・デザインともに時代の最先端をゆく集合住宅は、後に『同潤会アパート』の通称で呼ばれるようになった。
昭和後期になると老朽化が進み、生活様式が変わったこともあって、同潤会アパートは順次建替えられていった。歴史的価値が見出された建築に対して保存運動が起こったケースもあったが、実現にはいたらなかった。『同潤会 上野下アパート』は1929年4月に竣工し、2013年5月中旬から解体されることになった。4階建ての1号館と2号館からなる2棟の構造で、全71戸の住居のほか、店舗4区画、集会所1区画を備えていた。

フォトギャラリー

  • 上野下アパートの外観正面(写真・兼平雄樹)。
  • 台東区を循環するバス「めぐりん」。
  • 日を受ける上野下アパート(写真・兼平雄樹)。
  • 1階エントランス。
  • 上野恩賜公園にある五條天神社。
  • 上野下アパートの表札。
  • 歴史を感じさせる、すり減った階段の手すり。
  • 清洲橋通りから望む道沿いには理容店『巴里バーバー』が。
  • 下谷神社の祭りでは、山車が上野下アパートの前を通るのが通例であった。
  • 住戸のひとつ(写真・兼平雄樹)。床の質感、衣装が時代を物語る。
  • 井戸から水を汲み上げるポンプ。建替え後にも、オブジェとして残されることになった。
  • 上野下アパート前道路から西方向、消防署の火の見櫓が見えた時代もあった。
  • 外へ続く扉。晴れた日には心地よい空気が通り抜けていった。
  • 敷地内の土の匂いは昔と変わらない(写真・兼平雄樹)。
  • 解体前の上野下アパートの正面。
  • エリア散策

    伝統とモダンが融合する下町文化に触れて。

    エリア散策
  • 物件紹介

    建築史に刻まれる集合住宅がついに生まれ変わる
    「ザ・パークハウス 上野」

    物件紹介
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