1894年(明治27年)6月、丸の内最初のオフィス建築「第一号館」竣工。

1894年(明治27年)6月、丸の内最初のオフィス建築「三菱一号館」竣工

ザ・パークハウスの原点は、明治期、日本初の街づくりに遡る。

荒野に創出された、洋風建築のオフィス街。

荒野に創出された、洋風建築のオフィス街。

1894年(明治27年)竣工。英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、煉瓦造、地階付き3階建ての洋風事務所建築。老朽化のため1968年(昭和43年)に解体された。

明治政府からの相談に応じ、丸の内の土地が三菱(正式には岩崎久彌総代理人、岩崎彌之助個人)に払い下げられた1890年(明治23年)当時、一帯は朽ち果てた古い大名屋敷のほかは、草が生い茂るばかりの荒れ地だった。しかも、三菱社の所有になってからは、ほとんどの建物が取り壊されたこともあり、数寄屋橋内から辰ノ口にかけての一帯は、さながら大野原の様相を呈していた。そして背丈を超える雑草のなかで人力車の車夫などが、白昼ひそかに賭博行為にふけっていたことから、「賭博カ原」「三菱カ原」と揶揄された。


だが、当時の社長・岩崎彌之助と、社長のもとで最高職の管事を務め、三菱の近代化に大きく貢献する荘田平五郎のふたりには、まったく別の景色が見えていた。それは1891年(明治24年)に東京府へと提出された届書に、彌之助の言葉としてしたためられている。現代文に直すと、次のとおりである。


「同地域は宮城に近接し東京市の中央にあって、最も中枢になるべき土地であるので、もし一般的な貸付地等に提供し、借地人の自由な処分を許すならば、その建築は必ず粗悪なものとなり、単に都市の景観を害するだけでなく、衛生上、防火上も公私の別なく、その損失は軽視できぬものであると考え、利用上、将来の利害得失を計算して、私は微力ではあるが、投資する以上、石造・煉瓦等堅固な建築物以外は、建築しないつもりである」



荒野に創出された、洋風建築のオフィス街。

2009年(平成21年)に復元し、現在は「三菱一号館美術館」に。

こうして1894年(明治27年)に竣工したイギリス・クイーンアン様式の「三菱一号館」を皮切りに、最新工法のオフィスビルを次々と着工。1911年(明治44年)までに13棟ものビルが建設された。そして、かつての「賭博カ原」「三菱カ原」は、馬場先通りの両側に煉瓦造の建築が立ち並ぶ、首都に相応しい偉容と美観を誇る街並みを形成するまでとなり、人々はロンドン市街の面影を重ね合わせ、「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ぶまでになった。


とはいえ、当時はまだ貸事務所というビジネスモデルが浸透していなかった時代だけに、事業としては大苦戦。社内からも「建築制限を緩めて住宅を建てるべき」との意見が続出して大勢を占めるのだが、当時の最高幹部は首を縦に振るどころか、次のように言い放ったという。「三菱はここを模範街にする責任がある。何をしようと金をもうければ良いというような考え方は誤りである」と。


この決断は、丸の内都市計画の歴史上、見逃すことのできないターニングポイントとなった。なぜなら、日本初のオフィス街建設は揺籃期を終え、いよいよ成長期へと突入しようとしていたからである。

ザ・パークハウスを紐解く、6つのストーリー

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